人っていう字はなァ
人と人が支えられて生きているから人になるんだよ(適当)(金八先生こんなこと言っていた気がする)
大学生になってから痛感することだが、私はとにかく人に頼って生きている。それなりに知り合いがいるため、何かの情報(過去問や講義の情報)を得るために彼らに協力してもらう。
しかし今、私が本当に得たい情報がなかなか手に入らず、困り果てている。別に自分自身で努力すれば済むことなのだが、頼りグセがついた今、何から始めればいいのか右も左もわからないのだ。
高校生の頃は、受験なんて自分との戦いだったので右も左も勉強方法が分からなくてもがむしゃらに頑張れた。
でも今、人から何か言われなければうろたえてしまう、極めて空虚で薄っぺらい人間になった。
人に頼るのも大概にして、「自力で」目標達成したら、どんなに気分がいいことか。
自信がつくことか。
こじらせている
猫みたいな人が好きだ。飽きさせなくて、自分の世界があって、絶対に超えさせないラインがある人。でも、たまに本心で優しくしてくれる。
つかまえられそうだけどなかなかつかまらなくて、焦れったくて、苦しい思いをするばかりだけど、なんだかんだそれが恋の醍醐味かもしれない。
気持ちが通じ合ってからも、追いかけていたい。がむしゃらに追いかけて追いかけて、いつまでも追いつかなくて疲れてしまうくらいが冷めないコツかもしれない。
もしそれが、私にとっての幸せな恋愛なら、私が変わるべきなのか、甘んじて受け入れるべきなのか。
とにかく私は、こじらせている。
激動
個人的に激動の一ヶ月だった。
更新が一ヶ月前から途絶えていた言い訳では全くないのだが、とにかく色々な経験をして、自分の嫌な部分を見た。
私は外見こそ残念だが、内面を知ればきっとどの異性も受け入れてくれると思っていたし、恥ずかしながら可愛げもそれなりにあると思っていた。
しかし内面までたどり着いたところで去って行く人もいたし、自分自身の内面に疑問を抱き始めていた。「どうしてだろう、私は性格はいいはずだ」
この疑問はずっと感じていたことだった。
でも、実際は性格が悪いことを知ったのがこの1ヶ月。人の嫌な部分ばかり見つけてしまい、疎遠にしたがる。八方美人で敵を作らない私だが、これまで苦手な人はいたものの、嫌いな人はほぼいなかった。そんな私が嫌悪感を抱くまでになったのだ。
可愛げだってない。なんとなく書いたLineだって素っ気ないし、話をしていても上から目線で笑顔も少ない。どうしてあの子はモテるのか、どうして色々な異性と恋愛関係なしにLineが続くのか、結局はその子が自分でLineを終わらせていないからだ。自分の内面を知ってもらう機会を継続的に作っているのだ。
なんだ、私全然可愛くないじゃん。内面も。
下ネタ
一人暮らしをしていて爽快感のあることのひとつに、テレビで流れる下ネタに心置きなく笑えることだ。
アメトークやら月曜から夜更かしやらの時間帯の番組が家族共々大好きなのだが、みんなで見ているとどうしても恥ずかしくなるような下ネタが流れてくるため、ヒヤヒヤしたことが多くある。
ひとりだとヒヤヒヤはなく、ひたすら笑っているのである。しかしなぜ、下ネタってタブーなのだろうか。性にオープンな男性は、セクハラだと罵られ、女性は恥じらいがないと貶される。下ネタは多くの場合、誰も傷つけない。ただ苦手な人がその場にいた場合その人を傷つけることになる。
そもそも苦手になるのもどうしてなのだろう。タブーになっていなかったら下ネタって万能だし、誰もが笑うものだろう。
絶対になくてはならない性欲を、恥ずかしいものとして扱うのはやはり、ここまで文明を築いてきた人間の誇りがあるからだ。というのも、性欲はほかの生物と変わらない欲だからだ。
食欲は料理自体が進化を遂げ、高尚なものとなった。睡眠欲も、働く人間にとって大切な休息となり、崇められたのだろう(こちらは少々強引か)。ただ一つ性欲だけが、ほかの生物と変わらない欲なのである。
性欲はなぜタブーか。AVなどが誕生したことも踏まえると、もう少し考えなくてはならない。
ちょうどいいLINEの頻度とは
最近思うのだが、異性とのLINEが長く続く場合、ちょうどいい頻度ってどれくらいなのだろうか。
私は基本的に、同性でも異性でも、相手に合わせてLINEする。未読が激しい人なら、急ぎの用事でない場合、私も数日返事をしないときもある。逆に即レスがきたらテンポよく、画面を変えずにやり取りをする。
しかし、あまりLINEをしすぎてもお互い飽きてしまう。しかし、この時代、していなかったら異性との関係は進まない、土俵に立てない、ということもある。
ちょうどいい頻度を模索して、心地よいLINEを続けたい。
高校野球
高校野球が好きだ。別に詳しいわけでもないが、春と夏の暇な日、早く起きた日など、テレビをつけて地区大会や甲子園が流れているとつい見入ってしまう。
プロ野球には全く興味がないのだが、高校野球はそのまるでドラマのような真っ直ぐさ、球児の熱心さに胸を打たれるのだ。
私の高校にも野球部はあり、馬鹿みたいなことをして怒られ、ハードな練習に勉強の暇がないと悩み苦しんでいる部員たちは、ほかの部活の生徒と変わらないのだが、試合のときの彼らは格別に感じられた。
悔しさ、自分の無力さに耐えかねバットを地面に叩きつける姿、チャンスが訪れた時跳ねながらメガホンを振り回すスタンドの部員、そして喜びや悲しみ、思いが混ざり合い流れるどろくさく美しい涙。
高校野球もプロ野球も人生をかけている。まが、プロ野球のその安定したプレイよりも、一瞬に三年間の全てをかける、不安定でもろい高校野球のほうが心を動かされる。
シーズン中でもないのにこのことを綴りたくなった。
進学と就職
私は現在大学生であり、私の小さい頃からの同級生の幼なじみは就職して働いている。
だから高卒で働くことを別におかしなことだとか、かわいそうなことだとは思わないし、逆に進学という選択もいたって普通のことだと思っている。
大学に入って常々思っていることなのだが、私の周囲に高校卒業後の就職に対して偏見を持っている人がたくさんいる。
優しい人が多いため高卒の人を見下すことはもちろんない。だが「苦労してきたんだね」とあったニュアンスに感じることがとても多いのだ。
高卒で働いている私の友人は絶対に恵まれた環境で育っているし、私自身その友人の家族が大好きだ。
もちろん、私含め親の援助があり進学を選択する人は、それだけ恵まれている。だからといって客観的にではなく、主観的に彼ら全員が家族や環境に満足しているとは限らない。
そして高卒後就職する人が全員、経済的に乏しくて就職したわけではない。そしてもちろん、経済的な理由で就職を余儀なくした人も家族を愛しているケースも数えきれないほど多いだろう。
「進学者は恵まれているから環境に感謝するべき」という一見当たり前に聞こえるこのフレーズが、私は実はあまり好きではないのだ。