出会いを求めて

たしか年始のこの時期だったと思う。

人と手も繋いだことがなかった私は、猛烈に恋愛をしたくなった。

周りの幸せな恋愛話を聞いて羨ましくてたまらなくなったのだ。

Twitterで宣伝していたマッチングアプリに登録してみた。それまで偏見があり、どうしても登録できなかった。

でも友達に紹介してなんて恥ずかしくて言えなかったし、もしダメでもすぐ次に移れるアプリは手軽でいいと思ったのだ。


顔写真も登録しておらず偽名だったが、いいねはたくさん来た。別に私に魅力があるのではなく、アプリ始めたてはそういうものだと思う。


アプリを始めてから何人かと連絡を取り合っていて、返信は真面目にした。放置してしまうことはあったが、返信する場合は適当にすることはなかった。


でもLINEにうつったり会うのは怖く、なかなか踏み出せなかった。数週間後にはLINEに移ることはできたが、会うことはかなわなかった。


その中で連絡を頻繁に取り合うSさんがいた。彼は二十代前半の社会人、誰もが知る有名大学を卒業している人だった。


結果から伝えてしまうと、私は彼と会うことになる。

去年のクリスマス

昨年のクリスマスを思い出した。
大学の友人の家でクリスマスっぽい料理を食べ、いつも通り雑魚寝をしていた。
確か男女3人ずつだったが、どう考えても私は引き立て役でしかなかった。私以外の二人は華奢でかわいくて、優しくて良い子だ。もちろん引き立て役だと思っているのは私だけだったと思うが、それでも私は二人に比べ見るからに劣っている。それに耐えかね、ものすごく彼氏がほしくなった。一人に愛されたくなったのだ。
この出来事から、わたしの恋活がはじまる。

頼まれるという喜び

人に頼まれるとどうしてあんなに嬉しいんだろうか。特に名指しで頼まれたときなど、私という存在が認められた気がする。

私がこの世にいていいんだよ、という当たり前のことが体現されてほっと安心するのだ。

人に頼られるのが好きなのは、きっと自分を認めてあげたいからなのだ。

ずっと誰かに頼られていたい。
頼られるからこそ、私は努力できるし、強くなれる。

自己肯定感

自己肯定感がない。私のことは私が一番知っているので、その日常を客観的に見て、私が「変な人」に感じる。
私を甘やかし、私に飽き飽きし、私を好きになれない。
私を変えていかないと、私を好きになれない。
だから、誰でもいいから褒めてほしい。私のいいところを言ってほしい。
私の価値を、知りたい。

誰にも言えないこと

私には、周囲の誰にも言えないことがたくさんある。このブログも、癖も、習慣も、とにかく言えないことばかりだ。

私の他にも、そういう人はいるのだろうか。というよりむしろ、多くの人が誰にも言えないことを持っているのではないか、と。

そう考えると、私はもっと誰にも言えないことを増やしてもいいのではないか。

良い行動も人に言えない行動も、大胆に人生を生きてもいいのではないか。
だって、やらない後悔よりやる後悔っていうし。
私はもっと適当に生きていいはずだ。

目的意識

色々なことにうまくいかないことがある。
私が今いる場所は、ずっと望んで、ひたすら望んで、少なからず努力して得た。
しかし、怠けやその場その場の興味で、当初願っていた選択と少し違う選択をした。

あの時の目的が完全に正しいというわけではないと思う。現実知らずで、今ある空間が夢そのものだったからだ。

夢にいる私はたまに思う。この場と違う場にいまいたのなら、と。

強調の「」

共感を誘うツイートで人気を博しているアカウントはたくさんある。
よくもあんなに頻繁に人の心に訴えるツイートをできるものだなぁと、尊敬の念さえ抱く。

ただ最近、私がそのアカウントのツイートを多く見てしまったせいでもあるのだが、「同じことばかり言ってない?」と思うのだ。

ネタ切れなのかなんなのか知らないが、全盛期ほどの熱はフォロワーにもなくなった気がする(完全なる偏見で大変申し訳ないのだが)。

そして最近目立つのが、ある言葉を強調する「」である。「」の多くは、実際の意味と異なる意味で言葉を使うとき、それを目立たせるために使う。同じ意味でも単に目立たせるだけの作用があるが、この凡庸性は大変高く、だいたい何でもかんでも名言にしてしまう。極端な話、大したことを言っていなくても心に訴える必殺技ともいえると思う。

大したことないことを挙げてみよう。

はい、この(大したことないことを挙げてみよう。)も

「大したことない」ことを挙げてみよう。

どうだろうか??無駄にカッコを使ったが興味を誘う内容になったかと思う。

「」って必殺技だ。

「」って「必殺技」だ。